横浜大六天道院

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横浜大六天道院の笹本です。まだまだこのページは書きかけ、追記していきます。

道院設立に当たり、「大六天」をふくめた西谷の地史を調べてみると。これが面白い。土地の歴史というのは面白いものだと再認識しました。

少林寺拳法は荒廃した戦後に生まれた武道です。その目的を「人づくりによる国造り」としてきました。これには郷土愛も大切だと考えていますし、せっかくなので地史なども載せていこうかなと思います。

西谷という名前

「昔は西谷という地名はなくて、西谷駅ができた頃からかなぁ」というお話を聞いた。これをきっかけに郷土の歴史を調べはじめました。するとその話を裏付けるように、西谷中学校校名の由来として、

>最初は川島小学校があるので、わかり易く川島中学校が良いのではないかと言う意見もでたのです、横浜市に合併される以前の都筑郡西谷村の西谷をしたらと言うことになり現在の西谷中学校の校名が決まりました。その頃西谷の名称は相鉄西谷駅に残っていただけだと記憶しています。『創立20周年記念誌』(西谷中学校 S.57発行)

なお参照したの、『横浜市川島小学校創立百周年記念誌(s50.5.24発行)』創立20周年記念誌』(西谷中学校 S.57発行)で保土ヶ谷区図書館に蔵書があります。『』は西谷地区センターにもあります。

西谷の地名

帷子川はかつては金川と呼ばれ、これが神奈川と書かれるようになったと言われている(中丸和伯著『神奈川県の歴史』より)。このように神奈川県の県名の由来となったのが帷子川。現在の「帷子」は「片平」よりきており、片方が傾斜地、他方が平地という地形に由来しているようです。

西谷町の一体はかつては、上星川村、

(なおかつて上星川村がさらに上下に分かれており、上が西谷町、下が現在の上星川となっています。)

 

 

 

古くは都筑郡上星川村・川島村の一部で、1889年(明治22年)4月1日に両村が合併し西谷村となった。1927年(昭和2年)4月1日に横浜市に編入、横浜市上星川町および川島町となる。同年10月1日に区制施行により保土ケ谷区に編入される。1960年4月1日に上星川町・川島町の各一部から西谷町が新設された(wiki)

なお、「小田原衆所領役帳」よると、星川・仏向・保土ケ谷・川島・今井といった地名は15世紀頃には存在していた模様。

 

>明治三十年当時の農家

明治三十年以後より横浜市内の人口も次第に増加し、市街地も非常に賑やかになりそのため西谷村は、いわゆる都市近郊農村 に次第に変わり「じゃがいも」「ねぎ」等 野菜栽培の農家も増加し市内に出荷するようになった。また養蚕を主とする大農経営をする農家も増加してきた。しかし自給自足の状態は少しも変らず、味噌、醤油、麦芽から水あめまでも自家製造していた。

>押し入り強盗が続出した

ここの時期は、中央の政情不安定のためか、 非常に治安が悪く、農家に押し入り金品を強要する事件が続出した。そのため村内の有志が集まり、師を招き剣道(当時は撃剣と言った)を修業する人が増加し、郡大会にも参加して賞をもらったり、なかには段位を取り「田舎初段」と言われた人も多数出た。そして各家々には、防備用に「刀剣」を常備し賊の侵入に際して、これと渡り合い撃退したという武勇伝を、しばしば聞かされ たものである。

帷子町の洪水

昭和4年、昭和13年

 

参考資料

●『横浜市川島小学校創立百周年記念誌(s50/5/24発行)』

●『創立20周年記念誌』(西谷中学校 S.57発行)

●『目で見る横浜の100年 下巻』(2002/4/27発行)

●新編武蔵風土記稿 - 国立国会図書館デジタルコレクション

●神奈川デジタルアーカイブ『土地宝典』(昭和6年)


史跡類

 

>「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。(wiki)


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